人類が地球から飛び出し、無数の星々の合間に潜り込んだとて、娯楽だけは手放せなかった。
「カンパリオレンジって苦いと思ってた」
賑やかなバーで友人と寂しさを紛らせているのも、よくある光景だ。特に、無性に人肌を求めているのに恋人に頼りたくない時は、明るく気さくな友人と酒を交わすのに限る。
きっと、メソポタミアの時代でもこの宇宙で生活する時代でも、これだけは一生変わらないに違いない。
「案外あっさりしてるよね」
友人に調子を合わせて頷く。
「宇宙ポンカンって聞いたとき、あたし、あれ思い出したの」
友人が今にも自分の考えで吹き出しそうになりながら、口を押える。
「ああ、このカンパリのやつでしょ。有名らしいよ」
宇宙ポンカン、と私が調子を合わせると友人はもう堪えきれないと笑い出した。
「宇宙で、ポンカンなんて。臆病な番犬ぐらい変よ」
あまり想像力を掻き立てない友人のたとえ話に、私は手元のグラスを揺らして波を起こした。
この橙色は、地球の物と遜色ないのか。
思いを馳せても答えられる者はこのバーにはいないだろう。
「例えば、回らない風見鶏」
とか、と私は付け加えた。すると友人も笑みの形を崩さぬまま思考を続ける。
「風のない大地」
「それはあるでしょ。水星には大気がないわ」
バーの窓を私は指した。およそ地球の5分の2ほどの大きさしかない灰色の星は、なんてことない宇宙を漂うバーの特殊窓から臨むことが出来る。
水星を窓から見学しながら、カンパリオレンジを一口。私のようなただの一般会社員がこんな日常を送れること自体、千年前の人類には想像も出来なかったに違いない。
それこそアポロ十一号が国家予算を吹き飛ばしながら宇宙に向かったころ、人類はとてつもなく矮小な世界にいたのだろう。
「大気がないって言うので、収容太陽系惑星から外せって運動があるらしいわよ」
話の逸れた私に、友人はスムーズに食いつく。
「なんでよ。いいじゃん、水星がなにしたってのよ」
ただ宇宙を引力の従うままに漂う彼、もしくは彼女に友人は優しかった。
「利用価値のない星だから、主要惑星から外して得するやつらがいるのよ。議会に掛け合って、ね」
「ぎかいだって~」
「もしくは、不動産」
「惑星不動産ね」
私の欲しい応答に友人はバーテンダーのように言葉を差し出す。彼女が優秀なのもあるかもしれないが、一番は私と波長が合うからだろう。
私たちはなぜ生まれたのかも知らない。
惑星があって太陽、月、星、重力や引力。そして宇宙という入れ物のなかで意味もなく毎日暮らしている。しかし、嘆く必要などない。
引かれ合い、話し、今日ここにいるだけだからだ。
「あ、ムーサだ」
気も良く耳も良い友人が、バーのラジオに手早く耳を傾ける。しかし、反応があったのは友人だけではない。
頭の小さな地球人、肩幅のやたら大きい土星人、地球太陽系から遠く離れた星雲からやってきた者たちも、レトロな音声に乗せられた女性の声に耳をそばだてる。
ムーサ。
古代ギリシアの女神の名をもじって、ラジオに引っ張りタコのレディオ・シンガーを皆そう呼ぶ。音楽に疎い私だって知っているのだ。地球人というだけで、ギリシア人でもない彼女を皆危機としてムーサ、女神と言う。
奇妙だが、心地が良かった。
友人も私も、ムーサの歌声は分かり易く胸に届く。歌詞がないのだ。それでも、この喜びは彼女にしか出せない天性の才能からもたらされるのだろう。
ムーサ。女神よ。
私たちはいまだにこの世のすべてを自分たちの思い通りに出来ると思っている。
惑星も、その軌道も。きっと、人の自由さえも。
ラジオでしか聞いたことのない声の女神よ。
「私の一族って、昔地球のエヒメって土地にいたの」
「えっ」
友人はムーサの声に聞き惚れていたからか、私の会話のパスを受け損ねた。
私はグラスに口づける。
「宇宙ポンカン、うちの家族が作ったの。疑似居住惑星グリーンでね」
「あ、私失礼なこと」
みるみる青ざめる心優しい友人に、私の方が吹き出した。
「やあね。ネーミングセンスについては、あなたと同意見よ」
私が笑い、友人も釣られる。引かれ合う星のように、不思議な力を感じた。
二人の友人と多くの星人を乗せたバーポッドは宇宙の中で揺れている。
一畳もない暗室の裸電球、そのものだった。